北上タスキ出撃するよ~

来る10月12日、神奈川県横須賀市で開催される 艦これオンリーイベント 横須賀鎮守府の夜戦に行きたくてたまらなかったので勢いでグッズを作ってしまいました!

行きたいと思った時にはすでに遅く、サークル申し込み時期が過ぎていたので、当日参加される bolze. さんにお願いして委託させていただくことになりました! ありがとうございます!! サークルスペースは夜戦01(ひょえ~~)です。

で、今回作ったアイテムはこれ。 艦娘タスキ第一弾。 

          

         「軽巡洋艦球磨型三番艦”北上”タスキ」 です! 

北上タスキ紹介用web.jpg

            そして着用予想図は以下のとおり↓

北上タスキ着用見本.jpg

あの投げやり感じがなんとも言えない味わいを醸しだす 北上さま。 出会った頃の軽巡洋艦verです。 我が艦隊では先日改Ⅱでハイパー化されたばかりなのですが、私としては艦これを始めてから一番長い間付き合ってきたモスグリーン制服姿が愛着あったりするのでしたw(でも今はハイパー化した北上さまが中破する度にたまらん気持ちになっている)

イベント会場内で素早く着脱可能なこのタスキ。 表の旭日の中心に大井っちのバッチを装着して二人の愛を確かめるもよし。 裏のUP画像に水雷艦娘達のバッチをつけて自分艦隊を再現するもよし(大井の缶バッチはいきなり作っていこうかと思ってる)

色々遊べると思いますので、見に来てやってください!

(場所を間借りしているということもあり、数を持っていくことができません。 また単価も高くなりそうです。 3ぜん・・・まだ、わかんない(^^;) 何卒ご了承ください)

供養

人の生死を扱った内容ですので、こちらでずっと公開するかどうかわかりませんが、父の死去に伴いつらつらと文章をつづってみました。 宜しければ読んでみて下さい。
2012年3月4日 有馬啓太郎 拝
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2012年1月某日午後2時24分  父・政勝が死んだ。 自分は丁度原稿の入稿を控えて必死に作業中であり、部屋にはアシさんもいた。 その二日前には父と電話で会話をし翌日には見舞いに行くと伝えてあった。 数時間前まで意識はしっかりしており、急変したらしい。 母が車に父の着替えを取りに行って帰ってきたときには目をむいて悶絶状態になっていたそうだ。 おそらく急に気管が詰まってしまったのだろう。 ガンが食道と気管を圧迫しているという報告は受けていた、だからそのせいで急に気管が詰まったりしないよう管を通して気道を確保するといった処置を決めたばかりの出来事だった。 
ガンの告知を受けたのは1年ほど前、肺ガンだった。 抗ガン剤治療を続けてはいたが、昨年秋頃から再発したガンの進行は早く、年末から病状は急激に悪化。 一週間ほど前に余命はひと月程度との宣告を受けていた。 とほいえ先述のとおり二日前には話をしていた事もあって、まだ余裕があるような気がしていた。 気にしていた事もあったから、次に会ったらそのことについて話をしたいと思っていた。 母がずっと病院に詰めていたので仕事が終わった後には交代して二人きりになったときにでも話そうかと思っていた。 結局、余命宣告をされた際に少しだけ話をしたのを最後に直接会って話をすることはできなかった。 この商売をやっていると親の死に目に会えないなどと良く聞いたことはあったけれど、本当にそうなるなんて思ってもみなかった。 ビックリだ。 
正直、父のために出来たことなんてあまり思いつきません。 だから思い出を文章にして、こうやって発表しようと思いました。 変なところで父と私は似ていると思っていますし、数ヶ月前に苦笑しながら父もそう言っていました(主に駄目な方向で)。 だとすれば、誰かの心の隅にちょこっと記憶として残っているのは多分嬉しいだろうと思うので、良かったら読んでやってください。
「お前と俺は変なところが似ているなぁ」と私に対して言っていた父は、息子の自分から見ても結構な変わり者だったと思う。 今まで数人の友人に紹介したことがあるけれども、皆一様に「面白い人だ」という評価をしてくれていますし、皆の感想から察するに印象に残るタイプの人であったであろうと思っています。 
大学を出た後に親類縁者の会社に勤めたあと数年で退社。 仕事を何箇所か転々とした後、友人主催の雑誌立ち上げに参加してオール関西という雑誌の記者をしていたとのこと。 自分が物心ついた頃には記者を辞め、土地・建物・地域開発関係のマーケティング会社を立ち上げ関西電通さんの下請業者としてコンサルティング業をしておりました。 どうやら雑誌記者などをする傍ら関西一円の住宅マンション等の広告チラシを集め続け、地域ごとの価格動向などを把握することでコンサルとしての立場を築いていったようです。 バブル期にはソコソコ景気が良かったようです、バブル絶頂のさなか末○興産の社長に「生涯年収の何倍もする住宅を売り続ける商売なんてもつわけがない」と言ったら仕事干されかけたけど、お陰でバブル崩壊の後も仕事をもらえたw などとよく言っておりました。 その後、時代の移り変わりとともに経験と独自の情報収集能力で生き延びてはいたものの、徐々に仕事が少なくなり、ここ数年は”会社は在っても開店休業”状態で苦しい懐事情であったようです。 「さっさと会社をたためば良かったのに・・・できなかった」と11月頃に口にしておりました。  「お前もそうだが・・・俺もなんというか芸者みたいなもので、結局舞台に上がって踊るのが好きなんだな」「もうやめよう、と思っているのにお座敷から声がかかるとな、なんか嬉しくなってひょいひょいお座敷に出ていってしまうんや・・・・だからな会社つぶし損ねてしまった、ロクに売り上げないのになあ」「・・・最後のお座敷はせっかく呼んでもらったのに、うまく踊れなかったわ」そんなことを言っておりました。 変なところが似ている息子としては、わが身にも痛切にかぶってくるその言葉にどう返答すべきか悩んでしまって、ずっと答えを考えていて、自分なりの回答を伝えることなく逝かせてしまったのが少し心残りです。
子供の頃の父との思い出はほとんどございません。 忙しく働いていた父はせいぜい週に1日くらいしか帰宅せず、ずっと会社にこもっていたようです。 知らないところで何かあった可能性も否定はできませんが、自分と変なところが似ているので浮気とかそんなんじゃないだろうな~と想像がつくのは・・・少し悲しいですが、まあそんな感じ。 家族旅行などもほとんどした覚えがありません。  父とまともに会話をするようになったのは高校生になってから、仕事の手伝いでバイトをするようになってからでした。  父がプレゼン用に使う地図の色分け作業、今ならパソコンで一瞬に出来てしまうような作業ですが、当時は刷り出した資料を丁寧に色鉛筆で塗り分けていました。 「なんだ、今まで近所の大学生とか専門学校生使ってたけどお前の方が上手いな」と言われたのがすごく嬉しかったのを覚えています。 内容的に関係ありませんが、自分はとても残念な子供でしたので、何か実際に社会に対して役に立っているような感覚を得られたのは非常に貴重な経験だったと思っています。 また、父の仕事内容を聞くようになって、いろいろ目的意識を持つようになったのもこの頃でした。 父の仕事は先述しましたとおりマーケティングリサーチとコンサルタントです。 顧客がどのような商品の求めているのか、商品の存在をどのように伝えれば買ってもらえるのか。 そういった提案をすることでお金をいただいておりました。 正直今の自分にはそれだけで商売が出来るとは全く想像が出来ないのですが、少なくともそのような思考が存在することを知ったことで、自分自身の行動に重要な理由を(言い訳)をでっち上げることが出来るようになりました。 私は子供のころから徹頭徹尾漫画家になりたいと思っていたのですが、おかげでこの頃受験をするということに非常に嫌気がさしていたんです。 本心では常に芸大に進学して絵を勉強したいと考えていました。 しかし母の圧力が強くとてもそういうことが言えるような環境ではありませんでした。 何かの圧力に屈している情けない存在の様な気がして勉強にも身が入らなかったのですが、ふとこれから先漫画家になる為にはどういった発想が必要かと考えた際に「一番漫画を買ってくれそうな読者が多い環境に自分自身をおいて読者と感覚がずれないようにしよう」と思うようになりました。 これで急激に自分自身との折り合いがつくようになり、だいぶ気が楽になったのを今も覚えています。 公立高校を卒業して私立大学に進学し、就職する。 当時関西在住していた学生の典型的なパターンを漫画作成と同時にやってみようと変な納得をして行動に移したのは父との会話がきっかけです。 まあ、現在の自分からすれば、経験として役には立ったモノの、実際に作家になるための必要な行動とはとても言えず、とんだ茶番でもあるのですが、それでも今の自分があるのは数少ない父との会話の賜物であったなあと切に思います。(母にとってはとんだ親不孝ルート選択だったわけですが)
さて、他にも印象的なエピソードがありますので、少し紹介させていただきますね。
~値段付け間違い事件~
おそらく私が浪人していた頃か大学生なりたての頃だと思いますが、朝に新聞の折り込み広告で表記価格が明らかに一桁間違っている商品を見つけました。 以前から欲しかった商品であり大体の相場を把握していたので間違い有りません。  面白がって珍しく家にいた父にそのことを話したら。急に「じゃあ、ケイタ君(仮名) スーツ来てお店に行こうか」と言い出しました。 訳わかりませんが、とりあえずスーツ姿になり興味津々で父の運転する車に乗り込みます。 すると車の中で父が言い出しました「ケイタ君、これからその広告を持ってお店に行って”この広告にあるこの値段のこの商品を売ってくれ”と言いなさい」「・・・えっ!?コレ値段間違ってるからこの値段じゃ売ってないよ」「広告に書いてある以上その値段の商品はあるはずやろ?そう言い続けたら店長出てくるからやってみろ」 
・・・正直、訳わかりません。 というか店に因縁つけてこいと言われてるとしか思えません。 全身全霊で拒否しましたところ、店の前まで行って車を素通りさせていきました。 
「そうか、イヤか?」「絶対イヤ!」「じゃあ、しゃあないけどなケイタ君」       
「やるヤツはいるぞ」  
・・・なんというか、教育だとは思うんだけどかなり嫌な緊張を強いられました。 ちなみに一桁間違っていた値段ですが、なんとなく高い方に一桁違っていたような気がしています。
~職業はスパイ~
久しぶりにあった従弟と親族の話になって「有馬家は金儲け下手だよね~」とか埒もない話していたときの事です。 「子供の頃、ボクと姉さんで政勝叔父さん(父)に聞いた事があるんだ、”叔父さんの職業ってなんなの?”って、そしたら・・・」「親父なんて答えたんだ?」「オレは”スパイ”だ!って」「は!?」「ス・パ・イ」「親父・・・訳わかんねえ」「わかんないでしょ、だから聞いたの”スパイって何するの?”って、そしたら・・・」 
「”辛い仕事だ、時には女子トイレに入らねばならないこともある”だって」
・・・・この話が20年近く前の話じゃなかったら本気でドン引きです。 残ってる資料やらなにやらから別に産業スパイでも盗撮癖の有る人物でもなかったようですのでホッとしていますが、オッサン何を言っとるんじゃと。
 このように色々と奇行・怪発言の目立つ人物でしたが、物事のとらえ方、分析の仕方は常に新鮮で面白く。 それは晩年になっても変わりませんでした。 入院以降、特に昨年3月11日震災の日に吐血したことによる急激な肺機能低下現象が起こってから、自己の健康不安に起因する周囲との感覚差・神経症的発言が見受けられるようになりましたが、父との政治や業界談義は変わらず有意義で楽しい時間でした。
父が亡くなったのが午後であった事もあり、通夜はその翌日に、葬儀はその翌々日に行われました。 式場は、生前の父自身と母の希望もあり実家で静かに家族葬としてとりおこなわれました。 ここのところ葬儀というと、どこかの会館などを借りて行われるお通夜・葬祭に参列する事が多かったので、当初は”スペース的に大丈夫か?”等と心配事ありましたが、結果的にアットホームで良かったなあと思っています。
入院したことを父は人に伝えようとしませんでした。 病状の事も人には言うなと言われていました。 昨年11月頃までは再起・社会復帰することしか頭になかったと思います。
病状の悪化が目に見えて激しくなった頃、数十年前に父の相棒として仕事を切り盛りして下さっていた方が神奈川から見舞いに来て下さいました。 大阪に住む娘に会いに来たついで・・・という嘘をでっち上げて戴き、色々探りを入れて貰いました。 「当時の仕事仲間に会いたいか?」と聞いたところ「会いたくない」と答えたそうです。 けれど最後に「オレは、あのグループの中じゃ出来悪かったんでな」と言っていたので本音がわからないともおっしゃっておられました。 動けなくなった自分を見せたくないというプライドと懐かしさと、きっと色んな感情が複雑に絡まっていたのでしょう。 また、この半年で私も知らなかった新しい側面が色々見えてきました。 私に対しての接し方と母&妹に対する接し方の違い、ぶっちゃけ母や妹には甘えているということが見えてきたり。 息子の私に対しては何とか見栄を張ろうとしているのが伝わってきていました。
そんな訳で、入院した事自体おおっぴらにせず。 ましてや死去した事もどこまで連絡すべきかわからなかったため、葬儀の事はほとんどお知らせなどしておりませんでした。 にもかかわらず、数少ないツテと妹の職場の同僚からの情報で、父の葬儀にはかつての取引先から数名の参列者が来て下さっていました。 中には全く別のご縁で私とつながりがあった方などもおられて、その方が一時期父の会社に在籍していたことがあったという話を伺って驚かされたりもしました。 死に至るまで、特にここ数ヶ月は苦しかったでしょうし、死の瞬間にも辛い思いをした事でしょう。 けれど父の死に顔は驚くほど綺麗に整っていて、最後に会っていただいた、かつての最前線で戦っていた父の姿を知る人たちにご覧いただいても、何ら遜色のない静かな表情をしていました。
父が亡くなって一月、かつての父の生活域周辺では今でも私が知らない父の記憶に出会う事があります。 クリーニング店に行ったとき、マッサージに行ったとき「もしかして息子さん?最近親父さん見ないけど元気!?」などと話しかけられ、一様に面白いだの変だの勝手な感想をお伺いする羽目におちいります。 この文章の最初の方でも述べていましたが、会った事のある私の友人達にも大概何らかの印象が残っている・・・そんな人でした。 上手く踊れなくなった親父に、死ぬ前に、言うべきかどうか悩んで、結局言えなかったのは
「死んでも記憶に残ってる」そんな感じの言葉です。 色々しゃべって、人に伝えるのが好きな人でしたから、まあ喜んでもらえるだろうと思っています。
ここまで読んで下さった方、本当にありがとうございました。

恥ずかしい動画(^^;)

サーカスさんのD.C.シリーズで大人気”ことり”というキャラといちゃいちゃするゲーム 「ことり Love Ex P」ってのがあって中に”こちょり”というおとぼけ二頭身キャラがいるんだけど、ソレのキャラを描いてるのが最近一緒に諏訪巡りをしている友人だ。

彼の日記を見ていたらそのキャラが公式の動画で動いていて嬉しいと書いてあったので見てみる・・・ 

http://www.youtube.com/watch?v=uJiKnUhIRtE&feature=player_embedded

こんな甘ったるい世界に騙されてやるもんか!!
・・・とか思いつつ再度見直す。

ボーカルも友達だった(^^;)  おまえら揃いも揃って甘ったるい世界からオイラを誘いおって!!  そんな訳で友達二人も絡んでるので甘い世界をココでも紹介しておこうと思います。 皆さんも甘ったるい妄想に浸って下さい。

でもオレ・・・どうしても信じられないんだ。 こういう甘い世界(ノД`)  




うらやましいから

昔は三倍返しだったそうです(駄メモ)

その昔、日本は中国(その時期毎の王朝)と朝貢貿易を行っていた。 この朝貢貿易だけれど現在の貿易に対して抱くイメージとはちょっと違っているような気がする。  なんでも中華思想の下で盟主である中国の属国となり(名目だけの場合も実質的な場合もある)、貢ぎ物を中国に献上する(貢献)と、それに対して中国はその国に対し盟主として物品を与える(賜物)ということを行っていたのだとか。 貢献に対する賜物は2倍~3倍返しが相場だったそうで、それなら文化云々以前に実利目的で盟主として崇めるよなあ・・・納得! という話。
世界の中心にあるのは(最も優れているのは)中国だから中国が世界を支配するのは当たり前。 だからこそ文化的にも財政的にも劣っているであろう遠く離れた地域にある友好的な国には援助してくれていた訳です。
日本には(下手すると現在の中国自体にも)この中華思想の一部しか伝わっていないような印象があります。  元々は中核をなす優秀な人々が支配し周辺の劣った地域の面倒を見る(まあコレはコレで大分偏ってますが面倒みようとするだけまし)という思想だったはずが、いつの間にやら意味無くソコの地域に住んでいれば世界の支配者・・・的な使い方されてる様な印象が。
相手の身勝手さを強調して嫌いになるための言葉になっているのなら不幸なことですね。
感覚的には現在の先進国が途上国に対して援助しているのとさして変わらないような気がしますがどうでしょう? 時代の変化で援助する側される側が変化していっているだけのような気もします。
追記:遣唐使が廃止したのは天神様こと菅原道真だと言われています。 自身が遣唐使に決定した後に「唐にもはや学ぶべき事無し(意訳)」といった内容の建議書を出して廃止したってんで、この時点で日本は唐の文化に追いついたからこそ遣唐使が派遣されなくなったような印象を持つ授業をガキの頃に受けた覚えがあります。 まあ実際過去に比べて文化的にもその必要性が少なくなっていたのは事実ですが、当時国力を急激に落とし内乱状態にあった唐に使節を送る価値があったかと言えば普通無いでしょうし、当然朝貢貿易による見返りだってさして期待できないはず。 それをさも”日本が追いついた”とか日本人にとって気分の良い歴史解釈を受容しているのはどうにも滑稽な気がします。  さらに言えばこの最後の遣唐使自体が企画されたこと自体がうさんくさい。 それまで50年間も派遣されていなかった遣唐使を何故復活させようとしたのか?  ・・・普通に考えたら学者の域を超えて政治家として力をつけはじめてきた菅原道真を藤原氏が遠方に追いやろうとした策略のような気がしてなりません。  それに道真が持ち前の機転で対抗したと見る方が自然な流れのような気がするんですよね。
あと不思議だったのが当時の留学生達の必要経費。 中国に留学して現地での生活とかどうしてたの?って話。  日本の為に勉強に行く訳だから当時の朝廷がお金出してたのかなぁとか思ってたけど、実際には留学先が面倒見てくれていたらしい。 辺境の夷敵に接しているであろう未開の友好国に親中国の人材を帰すことで自国の安全保障を図っていたようです。 あと遣唐使の派遣がもっとも盛んに行われていた奈良~平安時代初期は自分が受けた教育ですと政治的に比較的安定していて未来に向かって伸び盛りのNIPPONといった印象があったのですが。 実際には文化的に遅れていたというだけではなく、朝廷内部での血みどろの抗争劇が連続して起こっていて国内の経済状態が思いっきり疲弊していた時期だというのも遣唐使派遣の重要なファクターだったのではないでしょうか?  上手く行って帰ってくれば三倍返しという美味しいギャンブルはさぞや魅力的だったでしょう。  
・・・とか書きながら! うーん、最初書き始めだと「お返し目当ての可能性の方が大きいんじゃないの?」って話に持っていこうかと思ったんですけど。 難破して帰ってこれないリスクを考えたら進んだ大陸文化及び技術導入の意図の方が大きい気がしてきた(笑) まあ、でも経済的理由もなく高い志のみで行動していたかのような部分だけがちやほやされてたりするとすんごく気味悪くなるんですよね、私(^^;)
やっぱ物事が続くからにはそれなりのギブアンドテイクがあった訳で、その辺りはちゃんと認識しておいた方がよいって思います。

出火で中止

最近お仕事でおつきあいしていただいている編集さん。 昨年結婚なさったそうで先日1年遅れで新婚旅行に行ってこられました。 その調整もありしばらく打ち合わせをしていなかったのですが、先日アポをとって打ち合わせをしようとした当日に身内のトラブルとやらで打ち合わせがドタキャンとなりました。  何でもその日に義理のお父さんが交通事故に遭ってしまい、急遽対応せざるをえなくなったのだそうです。  まあ、そういう理由なら仕方ないと打ち合わせを延期したのですが、その際に「シルク・ドゥ・ソレイユ」のスーパーサーカス「コルテオ」に行きませんかとのお誘いが!  

何でも元々義理のご両親のために用意したチケットが件の事故のために余ってしまったという悲しいご事情。 ならば事故のせいで打ち合わせがキャンセルになってしまったお詫びにチケットを譲って下さるという有り難い申し出でございました。  それが本日11日午後3時からの公演チケットでなかなかとれない良席のチケットとのこと。  編集さん当人と野郎二人でお昼に食事をしてから見に行こうということになり、何とか待ち合わせに間に合いそうなタイミングで家を出て電車で移動。  品川駅を過ぎたあたりで気がつきました。

「チケット忘れた・・・orz」

事前に戴いていたチケットをわざわざ分かりやすい場所に移動させてそのまま忘れるといういつもの芸をかましてしまい必死に取りに帰ります。 本来13時20分に待ち合わせていたのが合流出来たのが14時30分過ぎ、申し訳ない気持ちでいっぱいです。  急いで会場に向かおうとして歩道橋を渡ろうとしたあたりから何やら面妖な長蛇の列が・・・

開場は14時からですし指定席ですので僕らが目指すイベントの列とは思えず途中で列の脇を抜けて会場正面に着くとソコには人が無秩序にごった返して居るではありませんか!

http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/091111/tnr0911111916017-n1.htm
「コルテオ」ステージ機材から出火、公演中止

あのね、コレは無いわ。 ピンポイントで流れるようなストーリー構成は辞めて欲しい。 
マジで!

お久しぶりでございます<(_ _)>

皆様、本当に本当にお久しぶりです。
そして・・・なんといえばいいのか。何も書き込まなくてすみません。

コレはずっと昔からの不味いパターンなのですが、メールなどでも返事がおそくなったあげく遅くなったからにはちゃんと返事書かなきゃならないと思ったあげく・・・書けなくなるという悪循環をしてしまうことがありまして。 それに近い状況です。 いや、それ以上にこのブログの書き込み方法にどうも慣れないってのも問題なんですけれど(^^;)

1月に月詠の連載が終わり、3月に単行本が発売となり。 嬉しいというか惚けたというか結構複雑な思いでいます。  終わったのに際して感謝の言葉を述べようとか、裏設定みたいなモノを発表でもしようか、とか色々考えました。

けれどどうもしっくり来ないんですよね。 終わったモノを何時までも言ってるのも何か違う気がして・・・

そんなわけで今現在は気持ちを切り替えて次の作品に向けてネタの仕込みなどに時間をかけているところです。  またどこかでお目にかかる機会がございましたら宜しくお願いします!

だいぶ間が空いてしまいました

なるべく3~4日に一度は更新したかったんですが、ついに失敗。
本気で書くと長くなる部分とかはタイミングが合わないと出しにくいですね。
書いてる時間ないと書いてられない・・・・

なんか単純所持の問題もいつの間にか安易な流れの方に結論が向いているようで頭が痛いです。

現実に照らし合わせて、過去の状況を鑑み、これから如何に良くしていくのかと言うことを真剣に考えたら”単に規制すればよい”という結論にはならないはずなんだけどなあとつくづく思ってしまいます。 

さて、こんな話題を振っている訳ですが折角なので食いつきのよさげな話を提供いたしましょう。

リアルの恐怖体験談でございます。

「饅頭こわい・・・・でも冷静に考えると”本当に怖い”ので逃げ出した話」

昨年のことです、私が近所の公園の高台でひなたぼっこをしているとかたわらでちょっと年齢対象外の幼女共が遊びはじめました。  そしてほぼ時を同じくて野良猫が寄ってきて私のすぐ側で眠りはじめました。

幼女共は猫に夢中です。 「この猫、兄ちゃんの!?(おじさんと言われなかったのは少し嬉しかった)」やたら元気そうな幼女ボスが私に話しかけてきました。  「いや・・・違うよ」そう答えると「なんだ違うのか・・・じゃあさ、飼ってやりなよ!はい名前を付けて!」と無茶なことを言ってきます。  「いや、うちにはもう猫が居るから・・・」 と答えると「良いじゃん、もう一匹飼ってあげなよケチ!」「ケチ!」「けち!」「けちっ!!」「じゃあ、お前等連れて帰ってやれよ」「私たち子供だもん!」「ペット駄目だもん!!」「けち!」「ケチ!!」との反応。

・・・・何故オレはこんなトコロでこげな幼女共にケチ扱いされねばならぬのか? 途方に暮れていると件の野良猫はすくっと立ち上がりそのままオイラよりも少し離れたところにいたブルーテントのあるじの側にすり寄っていきました。  「御主人様は他にいたみたいだぞ」そう言うと幼女ボスはこっちを振り向いて「わかった、じゃあ鬼ごっこしよう」と言い出しました「鬼は兄ちゃんな!」

がはははは、と笑いながら「鬼さんこちらーーーー!!」と叫んで四散していきます。  あっけにとられながら見ているとまたずかずかとこちらの方の駆け寄ってきて「ナンで追いかけてこない!!」と言って怒ります。

「あのな・・・お前等多分小学生にはなってるんだろ? 1年生か? 知らない人と遊んだり話したりしたらいけないって教えられてないのか・・・・!?」

「ばっきゃろお、1年じゃねえ!バカにするな」「あたし達2年生だよ!」「そうだそうだ!!」「・・・」

本気で怒ってます・・・この幼女共。  小学1年生と2年生の区別なんかオイラにはつきません。 興味もありません。 ソレよりも30代後半のオッサンが小学校低学年の女子児童を追い回していて傍目にどう見えるのかの方が大問題です。

「・・・疲れているから勘弁して下さい<(_ _)>」 早々に幼女共に白旗を揚げるオレ。

「泣くよ!」「鬼してくんないと泣くもん」「ねーっw」許す気が毛頭無い幼女共。

正直シチュエーション的にはすんごく面白かったんだけれど、漫画じゃなくて現実だったので本気で困った。  あと5歳ほど年が上だったらお兄さんならぬおじさんも何かとち狂ってたかもしれぬ。  けれど・・・現実だったので現実的に対処しました。

「じゃあ、いくね!」「いえーーいw」逃げていく幼女共。 

「こらあ!待てェ!!」 わざとおどけた声を出して追いかける俺。 微妙に距離をとると急にきびすを返してダッシュをかまして自転車に乗り「じゃあ、元気でな!」と言って逃げ帰りました。

「ゴラぁ、遊べよおお!!」「バカぁ!」幼女らしからぬセリフを投げかけられましたが多分この判断は間違っていないと思います。  いや、実際もっと若い頃に違う年齢の少女達にこんな風にからまれてみたかったですよ。 そしたらまた違う何かがあったかも・・・等と思っていられるのが幸せって事なんでしょうねw  

ちゃんちゃん<(_ _)>  

今のご時世、現実では「子供好きのお兄ちゃん」をやって遊んでいられるほど脳天気には慣れないよなあ~