昔は三倍返しだったそうです(駄メモ)

その昔、日本は中国(その時期毎の王朝)と朝貢貿易を行っていた。 この朝貢貿易だけれど現在の貿易に対して抱くイメージとはちょっと違っているような気がする。  なんでも中華思想の下で盟主である中国の属国となり(名目だけの場合も実質的な場合もある)、貢ぎ物を中国に献上する(貢献)と、それに対して中国はその国に対し盟主として物品を与える(賜物)ということを行っていたのだとか。 貢献に対する賜物は2倍~3倍返しが相場だったそうで、それなら文化云々以前に実利目的で盟主として崇めるよなあ・・・納得! という話。
世界の中心にあるのは(最も優れているのは)中国だから中国が世界を支配するのは当たり前。 だからこそ文化的にも財政的にも劣っているであろう遠く離れた地域にある友好的な国には援助してくれていた訳です。
日本には(下手すると現在の中国自体にも)この中華思想の一部しか伝わっていないような印象があります。  元々は中核をなす優秀な人々が支配し周辺の劣った地域の面倒を見る(まあコレはコレで大分偏ってますが面倒みようとするだけまし)という思想だったはずが、いつの間にやら意味無くソコの地域に住んでいれば世界の支配者・・・的な使い方されてる様な印象が。
相手の身勝手さを強調して嫌いになるための言葉になっているのなら不幸なことですね。
感覚的には現在の先進国が途上国に対して援助しているのとさして変わらないような気がしますがどうでしょう? 時代の変化で援助する側される側が変化していっているだけのような気もします。
追記:遣唐使が廃止したのは天神様こと菅原道真だと言われています。 自身が遣唐使に決定した後に「唐にもはや学ぶべき事無し(意訳)」といった内容の建議書を出して廃止したってんで、この時点で日本は唐の文化に追いついたからこそ遣唐使が派遣されなくなったような印象を持つ授業をガキの頃に受けた覚えがあります。 まあ実際過去に比べて文化的にもその必要性が少なくなっていたのは事実ですが、当時国力を急激に落とし内乱状態にあった唐に使節を送る価値があったかと言えば普通無いでしょうし、当然朝貢貿易による見返りだってさして期待できないはず。 それをさも”日本が追いついた”とか日本人にとって気分の良い歴史解釈を受容しているのはどうにも滑稽な気がします。  さらに言えばこの最後の遣唐使自体が企画されたこと自体がうさんくさい。 それまで50年間も派遣されていなかった遣唐使を何故復活させようとしたのか?  ・・・普通に考えたら学者の域を超えて政治家として力をつけはじめてきた菅原道真を藤原氏が遠方に追いやろうとした策略のような気がしてなりません。  それに道真が持ち前の機転で対抗したと見る方が自然な流れのような気がするんですよね。
あと不思議だったのが当時の留学生達の必要経費。 中国に留学して現地での生活とかどうしてたの?って話。  日本の為に勉強に行く訳だから当時の朝廷がお金出してたのかなぁとか思ってたけど、実際には留学先が面倒見てくれていたらしい。 辺境の夷敵に接しているであろう未開の友好国に親中国の人材を帰すことで自国の安全保障を図っていたようです。 あと遣唐使の派遣がもっとも盛んに行われていた奈良~平安時代初期は自分が受けた教育ですと政治的に比較的安定していて未来に向かって伸び盛りのNIPPONといった印象があったのですが。 実際には文化的に遅れていたというだけではなく、朝廷内部での血みどろの抗争劇が連続して起こっていて国内の経済状態が思いっきり疲弊していた時期だというのも遣唐使派遣の重要なファクターだったのではないでしょうか?  上手く行って帰ってくれば三倍返しという美味しいギャンブルはさぞや魅力的だったでしょう。  
・・・とか書きながら! うーん、最初書き始めだと「お返し目当ての可能性の方が大きいんじゃないの?」って話に持っていこうかと思ったんですけど。 難破して帰ってこれないリスクを考えたら進んだ大陸文化及び技術導入の意図の方が大きい気がしてきた(笑) まあ、でも経済的理由もなく高い志のみで行動していたかのような部分だけがちやほやされてたりするとすんごく気味悪くなるんですよね、私(^^;)
やっぱ物事が続くからにはそれなりのギブアンドテイクがあった訳で、その辺りはちゃんと認識しておいた方がよいって思います。

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